いつも心に銀の椅子
歳を重ねる度に「一つ大人になった」「また一年分老けてしまった」と観念的に捉えることはあっても、実際自分が若者でなくなってしまった実感というものは、自分でない別の何かから突きつけられるものであるような気がする。
身近な若者の存在であったり、流行っていることすら知らなかった文化であったり、共通言語だと思っていたものが通じなかったりetc…
自我として「大人になったこと」が先行し、それでも尚「自分はまだ若い」という意識を大前提として信じ続け、ふと気付けば「もう若者でない」とショックを受ける。
終いには「老けたなあ」と感慨深くなる。
まだ自分は25歳であるが音楽を通じて「もう若者でない」感覚を抱いてしまった。
十代前半の頃から穴が空くくらい読んでいたロッキンオンジャパンという音楽雑誌も全く手に取らなくなっている。
たまに読んでも掲載されてるアーティストの名前は知ってるけど、、という程度だ。
自分の好きなジャンルを追い過ぎるあまり若者文化について行けず、懐古主義者に成り果ててしまっている。
これはいかんとYoutubeで検索してとりあえず飛ばし飛ばしに流行の音楽を試聴するも、フックが見つからない。
錆び付いた琴線にただただ虚しくなる。
「別に無理矢理流行に乗らなくても」と思われるかもしれないが、そうではない。
何なら自分の好きなジャンル、文化の中では最新は追えている。と思う。
そうではなくて、流行が理解できる感覚を失っているどうしようもなさが悲しいのだ。
音楽だけの話をするなら、「ああ、これは十代の自分なら好みそうだ。だけど今は…」といった寂しさや、当時の「自分は好きだけど兄姉や親世代に理解してもらえない」というあの感覚の逆の立場に自分が知らず知らずのうちに立ってしまっている絶望。
そしてこれはちょっとしたことだが、自分の所属していた軽音サークルが、卒業して2年弱で雰囲気や好み、センスが自分たちのいた頃から少し変わってしまっているショック。これはこれで良いことなのだけれど。
こういった「若者でない」感覚に気付いて立ち止まってみる。
ずっとエバーグリーンであり続けることが生物学的にも、心理的にも難しいことはどうにか受け入れなければならない。
何なら逆転の発想で、流行を馬鹿にできる斜の構えの方が若者らしい気もする。
そもそも自分は幼い頃からどちらかと言えば「自分の好きなものを好きでいられたらいい」「分かる人にだけ分かってもらえればいい」というスタンスでいたのだった。
流行を取り入れる若さは消え失せても、周囲を気にせず自分の流儀を貫く若さは失いたくないものだ。
それで仲間を見つけられれば、その居心地の良さに半永久的に浸かることができれば、それで万々歳ではないか。
それまでも失ってあの頃は良かったと思うようになってから初めて老いを感じればよいのではないか。
狭くて深いやつにもGood nightを与えてくれと強く願う。
余談だが、タイトルの「銀の椅子」とは同志社大学新町キャンパス学生会館に存在した今は亡き最強の駄弁スポットである。
業者に撤去されるその瞬間まで居座り続けたあの、夏。
LIFE A PLAYLIST
降りしきる雪により通勤するのもひと苦労な週明け。
家を出れば轍の上に足を這わすことで精一杯、市バスは遅れ、始業は雪掻きからであった。
そんな冷え切った体を自ら抱き「スネオヘアーの『happy end』聴きたいな…」と思う。
雪で冬めきが増したせいか、欲する音楽はセンチメンタルだ。
こういう気分のときにはあの曲が聴きたいだとか、
この季節といえばあのバンドだとか、
この場所に来ると頭の中であの歌が鳴り止まないだとか、
あの娘が好きだと言っていた歌詞を思い出しただとか、
無駄にテンションを上げたいから電気グルーヴのShangri-Laだ!とか、
その時々の気分で聴きたい曲を選ぶ。
音楽の偉大さを借りればその逆も然りで、聴いた曲で気分やモチベーションを変えることだってできる。
毎分毎時間テーマソングが違うこともあれば、丸一日ただ一曲が頭から離れない日もある。
人生はプレイリスト。
なるべく明るい曲や楽しい曲で埋め尽くしたいけれど、切ない音楽に悲しみや寂しさを預けるときもある。
そうしたらまた楽しい音楽をリピート再生するのだ。
僕が生まれて9,317日目の今日の気分は「Feeling Better」かもね。
終わりなきPOV
生まれてから一度も東京ディズニーランドに行ったことがないという話をすると、大半の友人が「人生損している」と言う。
正直余計なお世話だとずっと思っていたのだが、いざ行ってみると楽しかった、行ってよかったと思うかもしれない。
しかし、その楽しさを知って初めて「人生損していた」と気付くのであって、知らない時点では損している気分にはならない。
逆に周りの人に対して「人生損している」と主観で思うことはたくさんある。
「スリーアウトチェンジ」を聴いたことがないなんて!
岩井俊二の「Love Letter」を観たことがないなんて!
銀座の喫茶youのオムライスを食べたことがないなんて!
僕にとっての人生における得は、他人にとって興味のないものだろうし、僕もそれを相手に強制するつもりもない。
そしてその逆もまた然りである、と今までは思っていた。
しかし、その自分の興味のテリトリーを意識的に広げ、介入や譲歩を繰り返すことによって得られる新たな発見、人生の得がこの先まだまだ存在するのだということも本当は分かっている。
そういう狭まった自分らしさを改革し、新たな一面を重ね、視点を広げ続けることによって人生を圧倒的に得していきたい!という目標を2017年は掲げていきたいと思う。
したいね、鳥瞰。
MUSEUM IN THE BRAIN
友人でも知り合いでもないのに印象に残る人というのは誰しも多かれ少なかれいると思う。
通勤バスの中で、毎日車内の右側の席に座り外に向かって小さく手を振るおじさんがいる。
外を見るとマンションのベランダから奥さんと思しきパジャマ姿の女性が手を振っている。
高校時代、友人のコピーバンドのライブを観に行った。
そのとき一緒に出ていた他校のバンドのギターのメガネ男子が一曲目に入る直前「覚悟はいいか?俺はできてる!!!」とジョジョのブチャラティの名言を放った。
そのあと何の曲だったかは覚えていないが、とても一生懸命演奏していた。
その後違うイベントでも彼を目撃したが同じことを言っていた。
3年ほど前、千本北大路のカフェ町子で働いていた女の子が毎回赤いセーターにオーバーオールを着ていてとても可愛かった。毎回。
僕の中でオーバーオールちゃんと呼んでいた。
京都駅前のヨドバシカメラで半年に1回ペースでこれまで3回だけ買い物をしたことがあるのだが、あのだだっ広いレジで3回とも同じボブカットの女性スタッフが担当だった。
保証書といっしょにレシートも残してるから確実。ロイヤルストレートフラッシュ。
働いてる金融機関で窓口担当をしていた頃、毎日トイレ利用のためだけに来店するおばさんがいた。多分いまも来てる。
入口のすぐ左がトイレなのだが、窓口まで来て「お手洗い貸してください」と言うわけでもなく、目配せだけして入っていく。
「いや、何勝手に顔パスしとんねん。笑」と毎回思う。別にいいけど。
当たり前のことだけど、知らない人でもひとつのことを反復しているから印象に残っているのだと思う。
自分もそういう意味で知らない誰かの印象に残っているのだろうか、と考えた。
と同時に、確実に「何か青い服の人」として知らない誰かの脳内に焼き付いているような気がしてきたな、、
Search for Magallanica
8月にフィルムカメラを買った。
Canonのオートボーイの白色。
カメラは詳しくないから、それが良いカメラなのかどうなのかはよく分からないけれど、見た目がとても可愛かった。
好きな写真家やこういう写真が好きというのはあるけれど、自分では理想的な写真は撮れないな、と色々撮ってみて思った。
構図のことを教えてもらってやっとなるほど〜〜と思うことが多い。実践できているかは怪しい。
エモーションで撮るしかない。
うまく言えないけど、人も物も景色もありきたりなのに架空みたいな写真が撮れたらいい。
写真の難しさはギターの音作りに似ているような気がする。
モノが良くても基本的な技術が無いと形を成さないし、写真の構図もベース・ミドル・トレブル・ゲインもバランスが重要。楽しさも重要。好みもある。
少し違うかーー
でも写真は良い。
写真の中で笑顔だと、その人を思い出すときも笑顔ね。
little estate
土曜日にもかかわらず、職場へ向かうバスに揺られている。
1時間だけの休日出勤。
思いの外、高揚しているのはきっとどこか非日常を感じているからだろうか。
ゆとり教育が始まる前まで実施されていた土曜日の授業に似ている。
そういった特別感のようなものをいつだって求めている。
印象深い場所や、誰といるかで日常が思い出に変わると思う。
市民プールで食べるセブンティーンアイス。
神社で飲むファイブミニ。
ライブのSEで流れるスーパーカー。
職場の屋上で昼休みに読む小説。
スーツを着た幼馴染と地元に帰る金曜日。
ファインダー越しに覗く恋人。
クリームソーダ。
特別な瞬間を、ずっと特別だと感じ続けたいし、風化した物事を忘れない大人であり続けたい。
小さな高揚をいつまでも。
でも、風船を見ると今でもワクワクしてしまうのは僕が子供なだけかもしれないな。
YOUNG ADULT TRANSITION
バンドがしたい。
最近それしか考えていない。
僕がバンドを組んでいたのは後にも先にも大学4年間のサークル生活だけだ。
中学、高校、浪人時代もずっとバンドを組みたいフラストレーションを溜め込み続けていたように思う。
バンドがしたい。
そもそも、どこで僕の人生は音楽に傾いたのだろうか。
僕が人生で初めて童謡やアニメソングなどを除いて音楽を意識し出したのは5歳の頃と記憶している。
親にねだり、人生で初めて買い与えられたCDは広末涼子の「MajiでKoiする5秒前 / とまどい」の8cmシングルだった。
嫌なガキである。
そして何故かここから6年間ほぼ音楽に興味が湧くことなく小学校生活を送る。
しかし契機は5年生のときに襲われたインフルエンザだった。
家の中でも隔離を余儀なくされた僕は、当時我が家で唯一の個室だった姉の部屋と寝床をチェンジし安静を図ることに。
当然寝る以外にすることもなかった僕は、布団から手の届く範囲にあった姉のラジカセを触ってみた。
そのとき流れ出したのがBUMP OF CHICKENのダイヤモンドだった。
実にベタである。
高校生になった姉がクラスメイトから借りたアルバム「jupiter」が僕の一番のお気に入りの音楽となった。
そこからジュディマリ、くるり、スーパーカー、スネオヘアー、レッチリ、GREEN DAY、Aqua(Cartoon Heroesとか超懐かしい!)など姉の聴いてるCDやカセットテープを片っ端から聴き漁り、小学生の頃からそっち側に偏り始めていたのである。
中学生になりお小遣いが導入された。
我が家のお小遣い制度は月1で、中学1年は1000円、2年は2000円、3年は3000円、高校3年間は一律5000円というCDが欲しいお年頃には少々難儀なものであった。
よって、止むを得ず手をつけた金銭捻出方法が、日本国においてイニシエより伝わる「昼飯代を浮かす」というものだったことは皆さんの予想の範疇だったであろう。
食欲を音楽で満たすロックンロールな精神。
このようにして月1000〜3000円、不定期に母が「弁当を作るの面倒くさ〜い」と言った日に渡される昼飯代500円のうち300円を浮かすなどして、僕はCDを買ったりレンタルしたりしていた。
ちなみに初めてお小遣いで買ったCDはバンプの「オンリーロンリーグローリー」である。
藤原基央に憧れてダボダボのケミカルウォッシュとグレーのパーカーを着てた頃もあった。
田舎者が頑張った感を存分に醸し出していた。
そして2005年、中学2年生になり漏れなく僕はギターを握ることとなる。
父が昔弾いていたMorrisのアコースティックギターである。
モテると思ってギター始めた〜〜などと適当を言っていた時期もあるが、それよりも恥ずかしいことにスノースマイルの指弾きがどうしても弾けるようになりたかったのだ。
500円のスコアを買いバンドを組んでるわけでもなく、発表する機会があるでもなく猛練習した。
この頃はまだあまり流通していなかったYouTubeを僕は存分に活用し様々なPVやライブ映像を鑑賞しまくっていた。
いま改めて考えるとここでインターネットエロに走らなかった自分は結構やばかったと思う。
特に聴いていたのがバンプ、レミオロメン、アジカン、スーパーカー、チャットモンチー、スネオヘアー、BEAT CRUSADERS、フジファブリック、GOING UNDER GROUND、POLYSICS、サンボマスター、銀杏BOYZ、スピッツなどである。
趣味の合う友達なんていなかった、と言えばそうでもなく、中学校の同級生に邦ロックが好きな女の子が何人かいたので仲良く話したりCDを貸し借りした。
よくあるロック少年の「友達はなく、運動もできず、一人で昼飯を食い、ヤンキーに虐げられ、女子とは話せず、ヘッドフォンしながら家と学校を往復するだけの日々を過ごす」といった属性ではなかった。
正直友達は多い方ではないが、バスケ部のスタメンだったし、ヤンキーより背も高くて175cmだったし。
大学の後輩に「やぶさんは何だかんだでこっち側じゃないからクソ」とよく言われる。
話が逸れた。
この頃メジャーな邦ロックに傾倒していた自分にとって初めてとなるインディーズのCDとの出会いがあった。
Base Ball Bearである。
初めて一人でドキドキしながら訪れたタワーレコードで「夕方ジェネレーション」と「HIGH COLOR TIMES」を手に取った。
完全に自分の好きな音楽がジャンルが確定された。
爽やかなサウンドが好きだと。
翌年ベボベはミニアルバム「GIRL FRIEND」でメジャーデビューし、1stフルアルバム「C」をリリースした。
この「C」に入ってる「GIRL OF ARMS」という曲はリリースから10年経ったいまでも僕の世界で一番好きな曲だ。
高校生になりベボベのルーツを辿りNUMBER GIRLに行き着いた。
パクリだと言われていたが、それでも尚ベボベの方が好きだ。
高校1年で初めてできた彼女もベボベが好きで仲良くなったのが契機だった。
思い入れは深い。
まさかギターの湯浅が脱退するとは想像もしていなかった頃。
入った高校には軽音楽部があり即入部したが、顧問の先生が苦手で一度も行かずに辞め、結局バスケを続けることにした。
このことを後悔しているわけではないが、やはり高校生バンドを組んでみたかったなと今でもたまに思う。
高校2年あたりから軽音でスピッツとGREEN DAYのコピーバンドをしていた陽ちゃんという男子と仲良くなった。
部活がない日は陽ちゃんとよく遊んだ。
レンタルショップに行き、借りたアルバムを陽ちゃんの膨大量のiTunesに突っ込み同期させてもらうなどしていた。
ちなみにこの頃使っていたiPodはnanoの第3世代の水色である。最高。
大学受験に失敗し華麗なる浪人をキメた僕はNUMBER GIRLとZAZEN BOYSにますますハマりいよいよ友達が少なくなった、
というわけでもなく、通っていた予備校で音楽友達ができていた。
当時流行したノートや教科書を入れる取手のついた謎のプラスチックの鞄にベボベとandymoriのステッカーを貼っているのを見たらしい京大コースの女の子が「Base Ball Bear私も好きなんです」と話しかけてくるなどした。
コアラ顔のサマーであった。
この子にART-SCHOOLのCDを全部借りてからというもの、浪人生の放つ独特な陰鬱オーラに拍車が掛かったような気がしないでもない。
予備校をサボり遊びに行った学園祭ライブでザゼンと七尾旅人を観たことから第一志望に決め、見事入学を果たした同志社大学では速攻で軽音サークルに入った。
Base Ball BearとSUPERCARのコピーバンドをどうしてもやりたかったのだ。
結局結成したバンドでの一番最初のライブで披露した曲はド下手クソなNUMBER GIRLの「透明少女」であったが、今なお黒歴史ではなく語り草だ。
1回生の間はベボベ、ナンバガ、スーパーカーのコピーバンドとして活動し、2回生からは以前記事にも書いた通りオリジナル曲を製作して卒業まで活動を続けた。
このmellow blueというバンドを組むにあたり出会ったベースのりさちゃんとは一生の友達となった。
ベボベのツアーにも一緒に行ったね。
そんな大学時代の思い出。
歳を重ねるごとに聴く音楽の趣向も変わり、最初は純粋なロックばかりだったのが、今ではセカロイの回し者かというくらいHomecomingsなど穏やかな音楽で肩を揺らし、はたまたNDGやハバナイなど東京アンダーグラウンドのレイブな音楽で踊り狂っている。
信用金庫に就職を決めてからというもの、インディーズ、アマチュアバンドのライブが日々の楽しみとなっている。
参加しやすいし、人も少ないし、チケットも絶対取れるし、値段も安いし。
そして現在。2016年。
先日、お付き合いすることになった女の子と共にGRAPEVINE × TRICERATOPSのツーマンライブに行った。
何だか高校生の頃に戻ったような感覚になり、とても楽しかった。
そこで立ち返ってしまった。
バンドがしたい、と思った。
社会人は遊びが充実しても、やはり特定のメンバーとバンドを組んでいた頃とは圧倒的に違う。
圧倒的に寂しさが付き纏う。
趣味でDTMソフトをダウンロードして一人で黙々と曲は作り続けているが、バンドを組もうと行動を起こしているわけではない。
遅くはないだろうか。25歳だぞ。
仕事も大変になってくる頃だぞ。
でも一度くらい二条nanoのステージに立ってみたいな。
いざ始めたら、聴く音楽の趣向が変わったとか言いつつ初期衝動バリバリの曲がやりたいな。
頭の中でオンリーロンリーグローリーの歌詞が鳴り響き続けている。