ドラマの象徴とスプーンの必要性
ホットのカフェオレを注文する。
テーブルに出されたらすぐに飲まずに膜が張るのを待ってその膜の真ん中に少しずつ砂糖を落としていく。
一定の重さに達したら耐えきれず砂糖を包んで膜がトプンと沈む。
この瞬間が僕はとても好きなのだけど、それを見た人には何をしているの、と少しだけ笑われてしまう。
行きつけのエレファントファクトリーコーヒーの常連のお客さんに印刷会社勤めの40代の男性がいる。
彼はいつもブレンドコーヒーを飲むときにスプーンで渦を作って、カップの端から少しずつミルクを流すことで渦巻き模様を作ってから味わっている。
合理性は何もないけどこういう自分ルールに拘っている人は素敵だなと思う。
こういったちょっと目が止まる仕草をする人には何かドラマを感じることがあって、この人にはこういう仕草がギミックとして出てくる映画が好きなのかな、とか今後どこかで渦巻き模様を見たらこの人のことを思い出すかもしれない、とかそういったちょっとしたもの。
別段何も起こらないのだけれど、それもまたドラマだって捉えられる。
誰かが笑ってくれたらそれもまた。
所作ひとつひとつの細部にドラマを宿すのも楽しい人生を作る一手だと思って、今日もカフェオレの膜に砂糖を落とし続けていく。
いつも心に銀の椅子
歳を重ねる度に「一つ大人になった」「また一年分老けてしまった」と観念的に捉えることはあっても、実際自分が若者でなくなってしまった実感というものは、自分でない別の何かから突きつけられるものであるような気がする。
身近な若者の存在であったり、流行っていることすら知らなかった文化であったり、共通言語だと思っていたものが通じなかったりetc…
自我として「大人になったこと」が先行し、それでも尚「自分はまだ若い」という意識を大前提として信じ続け、ふと気付けば「もう若者でない」とショックを受ける。
終いには「老けたなあ」と感慨深くなる。
まだ自分は25歳であるが音楽を通じて「もう若者でない」感覚を抱いてしまった。
十代前半の頃から穴が空くくらい読んでいたロッキンオンジャパンという音楽雑誌も全く手に取らなくなっている。
たまに読んでも掲載されてるアーティストの名前は知ってるけど、、という程度だ。
自分の好きなジャンルを追い過ぎるあまり若者文化について行けず、懐古主義者に成り果ててしまっている。
これはいかんとYoutubeで検索してとりあえず飛ばし飛ばしに流行の音楽を試聴するも、フックが見つからない。
錆び付いた琴線にただただ虚しくなる。
「別に無理矢理流行に乗らなくても」と思われるかもしれないが、そうではない。
何なら自分の好きなジャンル、文化の中では最新は追えている。と思う。
そうではなくて、流行が理解できる感覚を失っているどうしようもなさが悲しいのだ。
音楽だけの話をするなら、「ああ、これは十代の自分なら好みそうだ。だけど今は…」といった寂しさや、当時の「自分は好きだけど兄姉や親世代に理解してもらえない」というあの感覚の逆の立場に自分が知らず知らずのうちに立ってしまっている絶望。
そしてこれはちょっとしたことだが、自分の所属していた軽音サークルが、卒業して2年弱で雰囲気や好み、センスが自分たちのいた頃から少し変わってしまっているショック。これはこれで良いことなのだけれど。
こういった「若者でない」感覚に気付いて立ち止まってみる。
ずっとエバーグリーンであり続けることが生物学的にも、心理的にも難しいことはどうにか受け入れなければならない。
何なら逆転の発想で、流行を馬鹿にできる斜の構えの方が若者らしい気もする。
そもそも自分は幼い頃からどちらかと言えば「自分の好きなものを好きでいられたらいい」「分かる人にだけ分かってもらえればいい」というスタンスでいたのだった。
流行を取り入れる若さは消え失せても、周囲を気にせず自分の流儀を貫く若さは失いたくないものだ。
それで仲間を見つけられれば、その居心地の良さに半永久的に浸かることができれば、それで万々歳ではないか。
それまでも失ってあの頃は良かったと思うようになってから初めて老いを感じればよいのではないか。
狭くて深いやつにもGood nightを与えてくれと強く願う。
余談だが、タイトルの「銀の椅子」とは同志社大学新町キャンパス学生会館に存在した今は亡き最強の駄弁スポットである。
業者に撤去されるその瞬間まで居座り続けたあの、夏。
LIFE A PLAYLIST
降りしきる雪により通勤するのもひと苦労な週明け。
家を出れば轍の上に足を這わすことで精一杯、市バスは遅れ、始業は雪掻きからであった。
そんな冷え切った体を自ら抱き「スネオヘアーの『happy end』聴きたいな…」と思う。
雪で冬めきが増したせいか、欲する音楽はセンチメンタルだ。
こういう気分のときにはあの曲が聴きたいだとか、
この季節といえばあのバンドだとか、
この場所に来ると頭の中であの歌が鳴り止まないだとか、
あの娘が好きだと言っていた歌詞を思い出しただとか、
無駄にテンションを上げたいから電気グルーヴのShangri-Laだ!とか、
その時々の気分で聴きたい曲を選ぶ。
音楽の偉大さを借りればその逆も然りで、聴いた曲で気分やモチベーションを変えることだってできる。
毎分毎時間テーマソングが違うこともあれば、丸一日ただ一曲が頭から離れない日もある。
人生はプレイリスト。
なるべく明るい曲や楽しい曲で埋め尽くしたいけれど、切ない音楽に悲しみや寂しさを預けるときもある。
そうしたらまた楽しい音楽をリピート再生するのだ。
僕が生まれて9,317日目の今日の気分は「Feeling Better」かもね。
終わりなきPOV
生まれてから一度も東京ディズニーランドに行ったことがないという話をすると、大半の友人が「人生損している」と言う。
正直余計なお世話だとずっと思っていたのだが、いざ行ってみると楽しかった、行ってよかったと思うかもしれない。
しかし、その楽しさを知って初めて「人生損していた」と気付くのであって、知らない時点では損している気分にはならない。
逆に周りの人に対して「人生損している」と主観で思うことはたくさんある。
「スリーアウトチェンジ」を聴いたことがないなんて!
岩井俊二の「Love Letter」を観たことがないなんて!
銀座の喫茶youのオムライスを食べたことがないなんて!
僕にとっての人生における得は、他人にとって興味のないものだろうし、僕もそれを相手に強制するつもりもない。
そしてその逆もまた然りである、と今までは思っていた。
しかし、その自分の興味のテリトリーを意識的に広げ、介入や譲歩を繰り返すことによって得られる新たな発見、人生の得がこの先まだまだ存在するのだということも本当は分かっている。
そういう狭まった自分らしさを改革し、新たな一面を重ね、視点を広げ続けることによって人生を圧倒的に得していきたい!という目標を2017年は掲げていきたいと思う。
したいね、鳥瞰。
MUSEUM IN THE BRAIN
友人でも知り合いでもないのに印象に残る人というのは誰しも多かれ少なかれいると思う。
通勤バスの中で、毎日車内の右側の席に座り外に向かって小さく手を振るおじさんがいる。
外を見るとマンションのベランダから奥さんと思しきパジャマ姿の女性が手を振っている。
高校時代、友人のコピーバンドのライブを観に行った。
そのとき一緒に出ていた他校のバンドのギターのメガネ男子が一曲目に入る直前「覚悟はいいか?俺はできてる!!!」とジョジョのブチャラティの名言を放った。
そのあと何の曲だったかは覚えていないが、とても一生懸命演奏していた。
その後違うイベントでも彼を目撃したが同じことを言っていた。
3年ほど前、千本北大路のカフェ町子で働いていた女の子が毎回赤いセーターにオーバーオールを着ていてとても可愛かった。毎回。
僕の中でオーバーオールちゃんと呼んでいた。
京都駅前のヨドバシカメラで半年に1回ペースでこれまで3回だけ買い物をしたことがあるのだが、あのだだっ広いレジで3回とも同じボブカットの女性スタッフが担当だった。
保証書といっしょにレシートも残してるから確実。ロイヤルストレートフラッシュ。
働いてる金融機関で窓口担当をしていた頃、毎日トイレ利用のためだけに来店するおばさんがいた。多分いまも来てる。
入口のすぐ左がトイレなのだが、窓口まで来て「お手洗い貸してください」と言うわけでもなく、目配せだけして入っていく。
「いや、何勝手に顔パスしとんねん。笑」と毎回思う。別にいいけど。
当たり前のことだけど、知らない人でもひとつのことを反復しているから印象に残っているのだと思う。
自分もそういう意味で知らない誰かの印象に残っているのだろうか、と考えた。
と同時に、確実に「何か青い服の人」として知らない誰かの脳内に焼き付いているような気がしてきたな、、
Search for Magallanica
8月にフィルムカメラを買った。
Canonのオートボーイの白色。
カメラは詳しくないから、それが良いカメラなのかどうなのかはよく分からないけれど、見た目がとても可愛かった。
好きな写真家やこういう写真が好きというのはあるけれど、自分では理想的な写真は撮れないな、と色々撮ってみて思った。
構図のことを教えてもらってやっとなるほど〜〜と思うことが多い。実践できているかは怪しい。
エモーションで撮るしかない。
うまく言えないけど、人も物も景色もありきたりなのに架空みたいな写真が撮れたらいい。
写真の難しさはギターの音作りに似ているような気がする。
モノが良くても基本的な技術が無いと形を成さないし、写真の構図もベース・ミドル・トレブル・ゲインもバランスが重要。楽しさも重要。好みもある。
少し違うかーー
でも写真は良い。
写真の中で笑顔だと、その人を思い出すときも笑顔ね。
little estate
土曜日にもかかわらず、職場へ向かうバスに揺られている。
1時間だけの休日出勤。
思いの外、高揚しているのはきっとどこか非日常を感じているからだろうか。
ゆとり教育が始まる前まで実施されていた土曜日の授業に似ている。
そういった特別感のようなものをいつだって求めている。
印象深い場所や、誰といるかで日常が思い出に変わると思う。
市民プールで食べるセブンティーンアイス。
神社で飲むファイブミニ。
ライブのSEで流れるスーパーカー。
職場の屋上で昼休みに読む小説。
スーツを着た幼馴染と地元に帰る金曜日。
ファインダー越しに覗く恋人。
クリームソーダ。
特別な瞬間を、ずっと特別だと感じ続けたいし、風化した物事を忘れない大人であり続けたい。
小さな高揚をいつまでも。
でも、風船を見ると今でもワクワクしてしまうのは僕が子供なだけかもしれないな。