YOUNG ADULT TRANSITION
バンドがしたい。
最近それしか考えていない。
僕がバンドを組んでいたのは後にも先にも大学4年間のサークル生活だけだ。
中学、高校、浪人時代もずっとバンドを組みたいフラストレーションを溜め込み続けていたように思う。
バンドがしたい。
そもそも、どこで僕の人生は音楽に傾いたのだろうか。
僕が人生で初めて童謡やアニメソングなどを除いて音楽を意識し出したのは5歳の頃と記憶している。
親にねだり、人生で初めて買い与えられたCDは広末涼子の「MajiでKoiする5秒前 / とまどい」の8cmシングルだった。
嫌なガキである。
そして何故かここから6年間ほぼ音楽に興味が湧くことなく小学校生活を送る。
しかし契機は5年生のときに襲われたインフルエンザだった。
家の中でも隔離を余儀なくされた僕は、当時我が家で唯一の個室だった姉の部屋と寝床をチェンジし安静を図ることに。
当然寝る以外にすることもなかった僕は、布団から手の届く範囲にあった姉のラジカセを触ってみた。
そのとき流れ出したのがBUMP OF CHICKENのダイヤモンドだった。
実にベタである。
高校生になった姉がクラスメイトから借りたアルバム「jupiter」が僕の一番のお気に入りの音楽となった。
そこからジュディマリ、くるり、スーパーカー、スネオヘアー、レッチリ、GREEN DAY、Aqua(Cartoon Heroesとか超懐かしい!)など姉の聴いてるCDやカセットテープを片っ端から聴き漁り、小学生の頃からそっち側に偏り始めていたのである。
中学生になりお小遣いが導入された。
我が家のお小遣い制度は月1で、中学1年は1000円、2年は2000円、3年は3000円、高校3年間は一律5000円というCDが欲しいお年頃には少々難儀なものであった。
よって、止むを得ず手をつけた金銭捻出方法が、日本国においてイニシエより伝わる「昼飯代を浮かす」というものだったことは皆さんの予想の範疇だったであろう。
食欲を音楽で満たすロックンロールな精神。
このようにして月1000〜3000円、不定期に母が「弁当を作るの面倒くさ〜い」と言った日に渡される昼飯代500円のうち300円を浮かすなどして、僕はCDを買ったりレンタルしたりしていた。
ちなみに初めてお小遣いで買ったCDはバンプの「オンリーロンリーグローリー」である。
藤原基央に憧れてダボダボのケミカルウォッシュとグレーのパーカーを着てた頃もあった。
田舎者が頑張った感を存分に醸し出していた。
そして2005年、中学2年生になり漏れなく僕はギターを握ることとなる。
父が昔弾いていたMorrisのアコースティックギターである。
モテると思ってギター始めた〜〜などと適当を言っていた時期もあるが、それよりも恥ずかしいことにスノースマイルの指弾きがどうしても弾けるようになりたかったのだ。
500円のスコアを買いバンドを組んでるわけでもなく、発表する機会があるでもなく猛練習した。
この頃はまだあまり流通していなかったYouTubeを僕は存分に活用し様々なPVやライブ映像を鑑賞しまくっていた。
いま改めて考えるとここでインターネットエロに走らなかった自分は結構やばかったと思う。
特に聴いていたのがバンプ、レミオロメン、アジカン、スーパーカー、チャットモンチー、スネオヘアー、BEAT CRUSADERS、フジファブリック、GOING UNDER GROUND、POLYSICS、サンボマスター、銀杏BOYZ、スピッツなどである。
趣味の合う友達なんていなかった、と言えばそうでもなく、中学校の同級生に邦ロックが好きな女の子が何人かいたので仲良く話したりCDを貸し借りした。
よくあるロック少年の「友達はなく、運動もできず、一人で昼飯を食い、ヤンキーに虐げられ、女子とは話せず、ヘッドフォンしながら家と学校を往復するだけの日々を過ごす」といった属性ではなかった。
正直友達は多い方ではないが、バスケ部のスタメンだったし、ヤンキーより背も高くて175cmだったし。
大学の後輩に「やぶさんは何だかんだでこっち側じゃないからクソ」とよく言われる。
話が逸れた。
この頃メジャーな邦ロックに傾倒していた自分にとって初めてとなるインディーズのCDとの出会いがあった。
Base Ball Bearである。
初めて一人でドキドキしながら訪れたタワーレコードで「夕方ジェネレーション」と「HIGH COLOR TIMES」を手に取った。
完全に自分の好きな音楽がジャンルが確定された。
爽やかなサウンドが好きだと。
翌年ベボベはミニアルバム「GIRL FRIEND」でメジャーデビューし、1stフルアルバム「C」をリリースした。
この「C」に入ってる「GIRL OF ARMS」という曲はリリースから10年経ったいまでも僕の世界で一番好きな曲だ。
高校生になりベボベのルーツを辿りNUMBER GIRLに行き着いた。
パクリだと言われていたが、それでも尚ベボベの方が好きだ。
高校1年で初めてできた彼女もベボベが好きで仲良くなったのが契機だった。
思い入れは深い。
まさかギターの湯浅が脱退するとは想像もしていなかった頃。
入った高校には軽音楽部があり即入部したが、顧問の先生が苦手で一度も行かずに辞め、結局バスケを続けることにした。
このことを後悔しているわけではないが、やはり高校生バンドを組んでみたかったなと今でもたまに思う。
高校2年あたりから軽音でスピッツとGREEN DAYのコピーバンドをしていた陽ちゃんという男子と仲良くなった。
部活がない日は陽ちゃんとよく遊んだ。
レンタルショップに行き、借りたアルバムを陽ちゃんの膨大量のiTunesに突っ込み同期させてもらうなどしていた。
ちなみにこの頃使っていたiPodはnanoの第3世代の水色である。最高。
大学受験に失敗し華麗なる浪人をキメた僕はNUMBER GIRLとZAZEN BOYSにますますハマりいよいよ友達が少なくなった、
というわけでもなく、通っていた予備校で音楽友達ができていた。
当時流行したノートや教科書を入れる取手のついた謎のプラスチックの鞄にベボベとandymoriのステッカーを貼っているのを見たらしい京大コースの女の子が「Base Ball Bear私も好きなんです」と話しかけてくるなどした。
コアラ顔のサマーであった。
この子にART-SCHOOLのCDを全部借りてからというもの、浪人生の放つ独特な陰鬱オーラに拍車が掛かったような気がしないでもない。
予備校をサボり遊びに行った学園祭ライブでザゼンと七尾旅人を観たことから第一志望に決め、見事入学を果たした同志社大学では速攻で軽音サークルに入った。
Base Ball BearとSUPERCARのコピーバンドをどうしてもやりたかったのだ。
結局結成したバンドでの一番最初のライブで披露した曲はド下手クソなNUMBER GIRLの「透明少女」であったが、今なお黒歴史ではなく語り草だ。
1回生の間はベボベ、ナンバガ、スーパーカーのコピーバンドとして活動し、2回生からは以前記事にも書いた通りオリジナル曲を製作して卒業まで活動を続けた。
このmellow blueというバンドを組むにあたり出会ったベースのりさちゃんとは一生の友達となった。
ベボベのツアーにも一緒に行ったね。
そんな大学時代の思い出。
歳を重ねるごとに聴く音楽の趣向も変わり、最初は純粋なロックばかりだったのが、今ではセカロイの回し者かというくらいHomecomingsなど穏やかな音楽で肩を揺らし、はたまたNDGやハバナイなど東京アンダーグラウンドのレイブな音楽で踊り狂っている。
信用金庫に就職を決めてからというもの、インディーズ、アマチュアバンドのライブが日々の楽しみとなっている。
参加しやすいし、人も少ないし、チケットも絶対取れるし、値段も安いし。
そして現在。2016年。
先日、お付き合いすることになった女の子と共にGRAPEVINE × TRICERATOPSのツーマンライブに行った。
何だか高校生の頃に戻ったような感覚になり、とても楽しかった。
そこで立ち返ってしまった。
バンドがしたい、と思った。
社会人は遊びが充実しても、やはり特定のメンバーとバンドを組んでいた頃とは圧倒的に違う。
圧倒的に寂しさが付き纏う。
趣味でDTMソフトをダウンロードして一人で黙々と曲は作り続けているが、バンドを組もうと行動を起こしているわけではない。
遅くはないだろうか。25歳だぞ。
仕事も大変になってくる頃だぞ。
でも一度くらい二条nanoのステージに立ってみたいな。
いざ始めたら、聴く音楽の趣向が変わったとか言いつつ初期衝動バリバリの曲がやりたいな。
頭の中でオンリーロンリーグローリーの歌詞が鳴り響き続けている。