青さについて

Kiss Mintとカロリーメイトとファイブミニみたいな青春

珈琲とごまかし

天気が曇れば何かと不満を漏らせど、晴れたところで私はいつだって建物の中である。

充実を求める割に、外に出てライブ鑑賞などの予定を消化している最中はあの漫画が読みたいやら、この映画が観たいやら色々なインドア思考が渦巻き、かと言って実際家から一歩も出ずに文化的教養の蓄積に努めた日は一日を無駄にしてしまったと、誰にも処されることのない罪悪感に苛まれてしまうのである。

充実って何だ。つまりは何か楽しい空間を特定の誰かと共有したいだけなのではないかと。

ご飯を食べながら談笑しているだけでも充実した気になれるのだから、自分ではない誰かの力は偉大である。ビバ友達。

それが分かれば何も難しいことはないのではないか!書を捨てよ、友に会おう!

 

ここである。私は友達が少ない。

正確には、同じコミュニティに属する同世代とある程度の節度と砕きを持って話すことはできるが、たまの休日に「あいつも同じく暇だろうから何をするでもないが居心地が良いので声でもかけてみるか」の対象となる者が数えるほどしかいないのである。

齢二十四にして遊びに誘うのが下手なのである。

同時に、私をそういう対象と見なしてくれる友達もまた少ない。

最悪の類は友を呼ぶ現象である。

というより数が少ない時点で類も友を呼べていない。最悪である。

 

なので仕方なく一人で過ごすことの多い最近の専らの楽しみは、以前知り合った花屋で働く美人のスモーカー留年女子大生が教えてくれた今出川大宮の喫茶店、逃現郷で食事を摂り、珈琲を飲むことである。

この記事も今まさに逃現郷で書いている。

いまの自分にとって皮肉とも受け取れる店名はさて置き、ここの珈琲は美味い。

珈琲を頼むと付いてくるチョコレートとごまかしが何とも嬉しい。

銀行業務検定の勉強も、漫画を読むのも、DTMで曲を作るのも全て逃現郷である。

いささか迷惑かとは思うも友達の少ない私を哀れんだ従業員の無言の情が、お冷の注ぎ方からビチャビチャ伝わってくる。(と都合よく判断している)

 

逃現郷

食べログ 逃現郷

 

こういうお店で友達と予定を合わせ、趣味の話に花を咲かせればいいじゃないとも思う。

しかし、こういうお店で過ごすのは一人の方が落ち着くなあとも思ってしまう。

しかし、致命的に寂しい。

いよいよどうしようもない。

そもそも私には趣味の話を共有出来る友達も少ない。

 

皆さんご存知の通り、私の趣味はいわゆるサブカルチャーに該当するものが多い。

サブカルチャーであること」に重きを置いている自覚は全くないが、大衆メディアから発信される文化的教養に満足せず、自分が純粋に好きになれるものを探し彷徨い気付けば属していたコミュニティから率先して弾き出されていたというのが現状である。

しかし、友達に全く同じ趣味を求めているわけではない。

むしろ趣味が同じでも仲良くなれない輩は一定数いる。

かと言って自分が全く介入できない分野の人間とも打ち解けるのは困難である。

 

勤め先の同期の一人(口が悪い)が以前「好きな子が三代続くJの一族に魅了されていると知ったら千年の恋も冷める」というようなことを口走ったことがある。

 私も同意した。Jの一族を否定しているわけではないが、あまりにも領域が違い過ぎる。

これは世間から見れば私に非があるのかもしれないが、全くもって興味を持てないものはしょうがない。

自分の領域外の趣味を持つ異性でも素敵だと感じる人だっている。

ただ、その両者とも性別に関わりなく心の底から仲良くなれるかどうかは別問題であるとも思っている。

 

では人と仲良くなれるかどうかの基準は一体何なのであろうか。

正解ではないかもしれないが、私にとって最も納得できるその答えは「笑い」ではないかと最近考えるようになった。

その気付きのきっかけとなった男に出会ったのは、大学生活も終わりの終わり、卒業式後の謝恩会である。

 

私は社会学部のメディア学科という、スポーツ推薦と指定校推薦と内部進学とオタクと浪人の占める割合の多い何ともアナーキーな場で学んでいた。

もちろん学科での友達は数えるほどしかいない。

交友関係のほとんどを軽音サークルという最初からある程度趣味を同じくする者の集うコミュニティで構成し、学科での友達作りを見限っていたのである。

しかし謝恩会で出会った彼は音楽の趣味が合うことから仲良くなりはしたが、そんなことを度外視してもとても興味深く、波長が合い、自分にとって奇特な存在だと感じた。

なぜ彼が面白いかというと、彼は頭が良いのだ。

教養に富み、文化に造詣が深く、ボキャブラリーの幅が広い。

総合的にクリエイティブなのである。あとエロい。クリエッチブなのである。

 

私は今までの人生でどちらかというと、顔芸や一発芸的な生まれながらの素質を武器に笑いをとるタイプではなく、語彙力や良い語呂の閃きによって日常の違和感を拾ってちょっと上手いことを言うといったタイプだったので、彼にも近しい何かを感じすぐに打ち解けた。

大学生活の4年間顔も知らなかった男と卒業してから最も親しくさせて頂いている。

そんな彼との会話の中でやはり大事なのは「同じ事象で笑いを共有できるかどうか」だと自分なりに腑に落ちる答えを得られたのである。

齢二十四にして。

気遣いを身につけていない小学生たちが何となくで感じ取っている物事にやっと説明がついたのである。

 

しかし大人数で大笑いしたいわけでもない。

仲間内でのそういった出来事も楽しいが、それは特別であって日常ではない。

 

私の好きなHi, how are you?というユニットの曲「僕の部屋においでよ」にこんな歌詞がある。

 

一人でいるのもみんなでいるのも何か何か何か違くって

誰かと二人 僕の部屋でコーヒー飲みたい

 

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真理である。原田くんの機微やリリックセンスが私の琴線をジャカジャカストロークしてくる。

 

齢二十四にして、少なくてもいいから誰か一緒にいて決定的に心地良い人間との時間を、愛おしく思える大人になりたいなんて当たり前のことを考えてしまう。

数が少なくても、趣味が合わなくても、会話の中で心から笑い合える仲であれば、遊びに誘うのに気を遣う必要などないのだろう。友達なのだから。

充実を考えるのはその後でいい。

何ならある程度周りに素敵な友達がいれば、無理矢理増やすものでもないだろうとポジティブな卑屈論で虚しさをごまかしそうにもなるけれど。

 

 

 

 

 

でもハイハワが好きでちょっとエッチな可愛い女の子と友達になって、好きな映画を観たり漫喫でダラダラしたりしたい。

寺山修司もそう思ってる。きっと。