有限の時と無限の詩
先日『パターソン』を京都シネマで鑑賞した。
前評判通り、日常の何気ない大切さとそこに宿る多幸感が広がる素敵な映画だった。
ネタバレをしてしまうと、この映画には大したネタバレが無い。
パターソンという街に住む、路線バス運転手であり趣味で詩を書くパターソンという男の物語。
何か起こりそうで何も起こらない。
でもパターソンのような穏やかな生活は人生単位で見ると奇跡に近いことなのかもしれない。
そういった尊さを描こうとする作品であった。
とある1週間を1日ずつ描く構成となっており、1日目でまずパターソンの日常のルーティーンを把握した後、2日目以降はそのルーティーンを繰り返すことによって生じるズレや変化といった“いつも通りだけどいつもと違う”感覚を楽しめる。
まるで詩の中で韻を踏んでいるかのよう。
そしてバスの運転や犬の散歩、行きつけのバーに立ち寄ったりとたくさん移動しているように見えて、それでもたったひとつの街から抜け出せない開放的な閉塞感のようなものも抱かせる。
街の名前であり、主人公の名前であり、映画のタイトルでもある『パターソン』の意味はここに還っていくのかな、と思う。
パターソンの街で交錯する見知らぬ人々の物語の中でパターソンは1冊のノートに詩を落とし続けていく。
作品を世に出すような著名な詩人になりたいわけでもなく、バスの運転手として、夫としてただ自分が美しいと思う詩をしたためる。
生活で韻を踏むように人生とは詩であるのだろうか。
少なくとも、犬のマーヴィンがアクセントとなってストーリーに笑いをもたらしたり、妻の個性弾ける美的センスにパターソンが微塵も影響を受けていなかったり、妻がパターソンの詩を好きで詩人として尊敬していたりと、愛しい要素も相まってこの映画が既に小さな詩の集まりのように感じる。
私たちは映画の中で何かが起こることに慣れてしまっているからか、「この詩がクライマックスへの伏線となっているのではないか」「犬のマーヴィンが何者かに攫われるのではないか」「バスが大きな事故を起こすのではないか」と先回りしてしまう。
しかしこの映画は「本当の生活や日常というものは、何も起こらないという素晴らしさを内包している」という気付きを与えてくれるものだった。
画面の色味や音楽に不穏さを感じるだとか、読み上げられる詩それぞれにあまり魅力を感じないだとかの個人的な好みの話なんて忘れて、スクリーンの中のパターソンにまた思いを馳せている。
余談だが悲しいことにマーヴィン役の犬は既に亡くなってしまっているらしく、それを知ったこともあり「パターソンをもう一度温かい眼差しで鑑賞したい、パターソンをもっと好きになりたい」という思いが更に強くなった。
ノートいくらでも破っていいから。。マーヴィン。。